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山ちゃん5963

山ちゃん5963

四十六、第二子長男藤吉郎秀吉

四十六、第二子長男藤吉郎秀吉

甲冑寧々秀吉誕生

ワシ等は、山陰合同銀行事務センター新築工事を竣工させて、昭和五十四年九月一日広島支店に戻った。家族は一時石生に返した。その理由はあの生まれ代わりの第二子の子宝がまた授かったからじゃった。『わっしょい』
最終月経開始日昭和五十四年一月二日、妊娠の初診日二月二十四日、胎動を感じた日五月四日と記録には出ておるぞ。さてここに待望の長男が生まれるか、それとも次女か。それはこの世に生まれ出るまでたれにもわからないのじゃよ。いかに人生の達人でもわからぬ事わわからぬのじゃ。そうやろう。なに?最近はわかるのけ?詰まらんのう。

第二子は、昭和五十四年十月四日、兵庫県氷上郡氷上町石生七七七番地、越川産婦人科越川祐正医師の取り扱いにより無事生まれた。母子手帳によると出生予定日十月九日、出生は予定日より五日早い。出生時間午後四時五十五分。分娩所要時間三時間。出血量少量。性別男。体重三千三百グラム。身長五十一センチ。胸囲三十三センチ。頭囲三十三センチ。なかなか元気な長男坊だった。ワシは嬉しくってたまらんかったぞや、そりゃー、やっぱり待望の長男じゃったからのう。広島から石生へと向かったが、汽車がなかなゆっくりすぎて(走ったほうが早い)、もっと早く越川産婦人科に着きたかったがなぜかえらく時間がかかったように感じた。しかし、石生駅で汽車を降りると越川病院に向かって走って行ったぞや。『白い花』持ってなあ。白い花は幸せの花。『えいほ、えいほ、えいほ』第二子、長男、顔を見ると、これがなかなか男前の赤ん坊だったのう。越川産婦人科の厠はぽっちゃん便所で、『便所にいって子供が落ちたらどないしょうと思った』と恵理子が言うとったなあ。まあそんな事にはならんはずだしなった事も無かったが、そりゃ腹に子を持つ身体であれば、心配するわいなあ。当然じゃ。やはり病院の便所は水洗便所でなくてはいかんぞえ。第二子、もうすでに名前は決めてあったぞや。その名はちと長いぞや、命名『山口 藤吉郎秀吉』十月十一日に届けを広島市長に提出した。生まれて一週間かかった理由は広島兵庫広島と移動したからか。うーん、皆が良い名前だといわなんだのう。義兄大内治は、ちょいと名前が長すぎる、試験の時、名前を書くのに時間がかかる、と言いおった。あほかい、ほんまに。名前は体を現す。ワシが寝る時間も惜しんで、考えに考えた末に命名したのだ。これでええんじゃよ。悪い訳ないやろうがい。であるから、大内治義兄は建築中屋根から墜落し、もうすでに鬼界にお入りじゃ。よって、里美ちゃんはてて無し娘になってしもうた。かわいそうじゃがワシは里見ちゃんに何もしてやれんかったのう。

後日、本人山口藤吉郎秀吉に『お前のこの名前、藤吉郎秀吉』はどうか、と聞いたところ、本人はえらく気に入っておったぞや。よかった、この名前も大成功じゃったのう。ワシゃ名付けの達人かいのう。いやそうかも知れん。そうじゃそうじゃ、きっときっとそうに違いない。

広島の住所は、広島県広島市中区舟入南二丁目八の二三 SC舟入アパート一〇二号室。隣一〇一号室には石橋角造(通称角ちゃん)がいた。舟入小学校がすぐ隣にあったが、寧々も藤吉郎秀吉もこの小学校に行くチャンスはなかったのう。若き藤吉郎秀吉は音感に優れておった。秀吉が二歳の頃、兵庫県氷上郡成松の『達身寺』に行ったとき。そこの回廊を歩き内部を見て回ったが、その時秀吉は自分の歩く音に合わせて身体をふりふり踊っていたのだ。今は車の爆音に酔っておるぞ。『バオーン、バオーン、バオーン』とな……?。今、朝は車体を振り振り仕事に行きおるぞや。ええのう。浜崎あゆみの後援会会長だってさ。おおきな看板作っとるぞ。

昭和五十五年四月一日から一級職になった。仕事はきついが楽しいもんじゃ、また親子四人で広島で過ごす私生活も楽しいものだったのう。何事も子供中心じゃからのう。えへへ。宮島の近くに潮干狩りに行ったのう。広島は瀬戸内で暖かくてよかったのう。恵理子は瀬戸の花嫁じゃった。酒は酔心。賀茂鶴。といろいろあったのう。流川で飲むより家に帰って子供と遊んだのう。冬の広島は生牡蠣と牡蠣鍋がうまかった。

その頃の出来事、広島空港に瀬戸の花嫁恵理子と藤吉郎秀吉の二人が見送りにきた。広島空港屋上の送迎デッキから恵理子と藤吉郎秀吉が手を振った。ワシと寧々は手を振り返し機上の人となった。そして二人東京羽田空港に向かって飛び立ったのう。飛行機の中で『わたがしが、いっぱいうかんでるよ』と言い、『わたしあのわたがしたべたいなあ……』と言った寧々。なんと楽しい飛行機旅行じゃったろうか。
さてさてその旅行目的はワシの明石高専友人山内徹の結婚披露宴に出席することであった。やがて、飛行機は羽田に着いた。羽田から信濃町『明治記念館』には確かタクシーで行った。が、しかし、そこにあるはずの宿泊客の予約者名に山口和久そして山口寧々が無かったのだ。『唖然!はれー』もう日は傾き、すでに、夕方から夜になりつつあった。さて一体この広い東京でどないしてこまいたろうか?小さい子供一人連れてのう。ワシゃ『途方にくれた』が、結局ワシと寧々は青山二丁目交差点の交番でおまわりさんに『近くにワシ等がとまれる安い旅館はないですかね?』と尋ね、そこでいい宿を教えていただいたのだよ。が、その後ワシは、誤って寧々の手をふんずけてしまった。疲れとったんじゃのう。寧々が泣いた。『ワーン、ワーン』とても、かわいそうじゃった……ワシも……。そのおまわりさんにバンドエイドをもらったよ。バンドエイドを貼ると、寧々が泣き止んだ。その時のおまわりさん名前は忘れましたが、どうも大変お世話になりましたのう。ありがとうございました。
なにか街中で問題が生じたら、近くにいるおまわりさんに聞くに限るぞや。絶対助けてくれるぞや。本当やぞ。
さてその紹介された宿は、青山二丁目交差点からすぐ近くの日本旅館だったなあ。旅館のおかみさんどうもありがとう。それでは風呂にも入ったし、おやすみなさい。ワシと寧々はよく寝たぞや。『くー、くー』熟睡。
明くる日、再び明治記念館に行き山内徹結婚披露宴に出席した。寧々の披露宴でのお祝いのことばは次のとおり『やまぐちねねともうします。さんさいになりました。よろしくおねがいいたします。』とマイクを片手にかわいい声で話した。出席者は全員にこにこだった。よかったのう。上手なスピーチ、非常にいい思い出だった。後で山内に聞いたら、明治記念館の宿泊予約は山内の名前ではなく、山内の相手方(新婦)の名前で予約してあったのだそうな。そんなあほな予約の仕方があるかい。これは、寧々が三歳の春の出来事じゃったわい。

何時のことかその頃、山口三郎の息子でワシと同級の山口泰正の結婚式に兄泰俊とワシと寧々とで神戸に行った。なかなか盛大な披露宴じゃった。ワシはよく飲んだ。寧々はよく食べた。帰りに神戸三ノ宮から丹波柏原へ向かうバスの中で寧々が吐いた。食いすぎだった。それ以来寧々は乗り物に酔いやすい体質になった。かわいそうにのう。ワシは酔った事無しだが。


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